2013年02月04日

上杉憲実(大寧寺に墓所あります)

ここ、長門湯本の大寧寺には関東管領を務めた上杉憲実の墓所が何故かございます。
ちょっとそこで関東管領という役職について。
南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した役職で、鎌倉公方を補佐する為です。
当初は関東執事(かんとうしつじ)と呼ばれてました。
初期段階では斯波家と畠山家が任命されてましたが、いつからか上杉家がなり最終的には上杉家が世襲していきました。
鎌倉公方の下部組織なのに、任命権は何故か将軍にありました。
っていうことです。

では上杉憲実について。

応永17年(1410年)、越後で生まれる。
応永24年(1417年)、前年からの鎌倉での上杉禅秀の乱が収束し、翌25年(1418年)には従弟の関東管領上杉憲基(山内上杉家)の養子となり鎌倉へ下る。
応永26年(1419年)に憲基が没したため10歳で関東管領に就任したとされており、翌27年(1420年)には就任がしてます。
上野・武蔵・伊豆の守護となる。
応永30年(1423年)6月〜8月には、小栗満重の乱を起こした常陸の小栗氏征伐に出陣し、小栗城を攻め落としている。


・永享の乱勃発
永享8年(1436年)、幕府の分国である信濃守護小笠原政康と豪族の村上頼清が領地を巡って争い、鎌倉公方の足利持氏に支援を求めた頼清を助けて出兵しようとするが、憲実は信濃は鎌倉公方の管轄外であるとして諌め出兵を阻止し、合戦は小笠原政康が勝利する。
翌9年(1437年)に持氏の信濃再出兵が企画されると、出兵は憲実誅伐のためであるとする噂が流れ、憲実方にも武士が集まり緊迫状態が生じる。
持氏は憲実の元を訪れて会談するが、憲実は相模藤沢へ下り、7月に嫡子を領国の上野に逃して鎌倉へ入る。
持氏は在職を望むものの憲実は管領職を辞任し、確執は解消されないままとなる。

永享10年(1438年)、6月に持氏の嫡子賢王丸(足利義久)が元服すると、憲実は慣例に従い将軍の一字拝領を賜るよう進言するが、持氏はこれを無視して「義久」と名乗らせ、源義家に擬して『八幡太郎』の通称を称させて鶴岡八幡宮にて元服の式を挙げる。
この頃には持氏が憲実を暗殺するという噂が立ち、憲実は義久の元服祝儀にも欠席している。
持氏に嫌疑をもたれた事に対し自害を試みたが制止させられた後、難を逃れるために8月には鎌倉を出奔して領国の上野平井城に下る。
持氏は憲実討伐のため8月に一色氏に旗を与えて派兵し、自らも出陣した。
幕府は関東での事態に対して、持氏討伐の兵を下す。

10月、憲実は武蔵分倍河原に着陣し、先鋒の一色・小笠原軍を破る。鎌倉軍は幕府軍に敗れ、持氏は出家して永安寺(鎌倉市)に入った。
憲実は幕府に持氏の助命と義久の関東公方就任を再三再四嘆願するが、義教はこれを許さず憲実に持氏を殺すよう命じ、憲実が固辞している姿勢を逆に持氏の翻意に荷担していると嫌疑がかけられた為、永享11年(1439年)、憲実はやむなく永安寺を攻め、持氏と義久は自害した。
これが永享の乱です。


・出家&隠遁

乱後、憲実は後事を弟の上杉清方に託して、伊豆国清寺に退き出家し雲洞庵長棟高岩と称した。
永享12年(1440年)、結城氏朝が持氏の遺児春王丸、安王丸を擁して挙兵する(結城合戦)。
幕府は憲実に政界復帰を命じ、憲実はやむなく出陣した。
その後、憲実は再び隠遁した。(政治の世界が嫌で嫌でしょうがなかったんでしょうね。

嘉吉元年(1441年)、嘉吉の乱で足利義教が暗殺される。
幕府は関東の秩序回復のため、憲実に関東管領復帰を命じるが憲実はこれを拒み、甥の越後守護上杉房朝に預けていた次男房顕を除く子供達も出家させる。
憲実は子供達に決して還俗せぬよう命じた。
しかし文安4年(1447年)、持氏の遺児成氏が鎌倉公方になると、憲実の長男憲忠が長尾景仲に擁立され還俗して関東管領に就任した。
憲実は憲忠を不忠の子であるとして義絶した。
憲実の危惧通り、憲実を親の仇だと考えていた成氏は享徳3年(1454年)に憲忠を暗殺して、享徳の乱を引き起こす。

この後、憲実は諸国遍歴の旅に出て、京都、九州にまで赴いたとされる。
享徳元年(1452年)には大内氏を頼って留まり、文正元年(1466年)、長門大寧寺で死去、享年57。
大内を頼って大寧寺に来たという感じですね。
関東の騒乱に比べて山口は過ごし易かったと思います。
それで大寧寺に墓があるということが判りました。

関東管領上杉憲実の墓.jpg

posted by ハンドルネーム:六角 at 17:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 山口県以外の歴史人物

2012年07月07日

尼子経久

今日は島根県出雲の有名人尼子経久について
尼子経久は戦国時代前半の人で、かの有名な織田信長や羽柴秀吉、徳川家康等の人物より約100年前の人です。
尼子経久は北条早雲(伊勢新九郎)や齋藤道三等と同じく下克上の典型的な人物で、下克上の先駆者ですね。
尼子氏の上司の京極氏から1度は月山富田城から追われてしまいますが、それを取り戻し出雲を拠点とし戦国大名にのし上がって行くのは見所があります。
一時は十一カ国を支配したということです。
尼子経久の「経」という字は、主君「京極政経」の一文字を拝領しました。
しかし、栄枯盛衰、年代が経ち尼子家の陰りが見え始め、経久の曾孫の義久の代に振興してきた毛利氏に潰されてしまいました。
でも尼子経久という人物は人間的魅力がありありの様です。
是非大河ドラマでも主人公として取り上げて欲しいです。
尼子氏&毛利氏&大内氏又は尼子氏&出雲大社&日御碕神社等の関係が見てみたいものです。
尼子経久.jpg
肖像画を見ると尼子経久って結構二枚目って感じしませんか?(*^_^*)

尼子経久.jpg

上記は島根県安来市の三日月公園にある尼子経久公の銅像です。
この銅像はいつ頃出来たんでしょうか…
昔、大河ドラマ「毛利元就」を放送した後でしょうかね…
posted by ハンドルネーム:六角 at 17:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 山口県以外の歴史人物

2012年06月27日

足利義輝

今日は戦国武将足利義輝。
武将というか時の天下の将軍です。
足利義輝.jpg
こんな人物です。
室町幕府13代将軍です。

剣豪と言われる上泉信綱と
塚原卜伝に指導を受け、卜伝からは一説に奥義「一の太刀」を伝授され、鎌倉から江戸までの征夷大将軍の中でも、最も武術の優れた人物として伝えられているみたいです。
但し卜伝はこの他に
北畠具教や細川藤孝などにも授けていたみたいです。
松永久秀らに二条御所で襲われた際には足利家秘蔵の刀を数本畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦ったという。
このため、現代において「剣豪」「剣聖将軍」と称される場合もあります。

  • 室町幕府の歴代将軍の中でも特に覇気に溢れ、武士らしい将軍と讃えられています。
  • その政治活動により、一時的とはいえ将軍権威が復活したことにおいて、その努力は評価に値するんじゃないかと思います。
  • 義輝は武衛陣(斯波武衛家旧邸)に室町幕府の拠点を移した将軍としても知られています。
  • 斯波武衛家の旧邸は室町中御門にあり、義輝の御所は室町中御門第と呼ばれてたらしいです。
  • のちに大規模に拡張され、石垣で囲まれた城郭風の外観となったため、旧二条城と呼ばれることもあるみたいです。  
  • 辞世の句は「 五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」
  • 辞世の句に、野心と無念が見えそうな。
  • 天文23年(1554)には大友氏から鉄砲火薬の秘伝書(『鉄放薬方并調合次第』)を手に入れたり、永禄3年(1560)にはガスパル・ヴィレラキリスト教の布教を許している。 
  • 永禄8年(1565年)、正親町天皇は京都からイエズス会を追放するよう命令したが、義輝はこの命令を無視したらしいです。
  • この時代に帝の命令を将軍が無視するなんてすごい度胸ですね。
  • 足利義輝が暗殺されずに生き残っていたら…織田信長とどうなっていたでしょうかね。
  • 足利義昭とはまた違う感じになってただろうし…歴史にifはないですが考えたら面白い。

  • とまあこんな感じに
    だいぶ昔に読んだ本を思い浮かべながら書きましたが違うことがあるかもかも知れないのでその辺はご了承願います。
    個人的に足利義輝のドラマどこかの制作会社が創ってくれるといいなって思ってます。

    posted by ハンドルネーム:六角 at 17:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 山口県以外の歴史人物