2013年02月15日

大内義興(完結編)

・尼子との戦
義興の留守中に勢力を伸ばしていた尼子経久の勢いは衰えることが無く、大永3年(1523年)には石見の波志浦を攻略され、安芸では大内家に従属していた毛利氏が尼子方に寝返っる。
尼子経久は毛利家当主・毛利幸松丸の後見役である毛利元就を利用して、大内氏の安芸経営の拠点である安芸西条の鏡山城を攻略(鏡山城の戦い)させるなどして、一時は大内氏を圧倒した。
これに対して義興は大永元年(1521年)から安芸・石見に出兵して連年のように尼子氏と戦うが、思うように戦果が上がらなかった。
大永4年(1524年)に安芸厳島に進出して佐東銀山城の攻防戦で尼子軍を撃破し、大永5年(1525年)には毛利氏が再び帰参したため、安芸における勢力をやや回復する。
また、尼子氏も山陰方面で山名氏らとの戦いもあったため、石見における勢力も義興は奪い返した。
さらに北九州の少弐資元らとも戦い、有利に戦況を進めている。
享禄元年(1528年)、安芸門山城攻めで病に倒れ、山口に帰還直後に死去した。
享年52。後を嫡男の義隆が継いだ。
※京都でも山口でもあちこち戦って負けてる戦も多いですが、山口に京文化が華やいだのはこの人のおかげって気がします。
まあ大内家の歴代当主はみな京都が好きだった感じしますね。

以上が大内義興です。
この義興のドラマ誰か制作してくれないやろか…
posted by ハンドルネーム:六角 at 17:29| Comment(0) | 山口県の歴史人物

2013年02月13日

大内義興(Part2)

・京都進出
永正4年6月、足利義澄を11代将軍に擁立して幕政を牛耳っていた細川政元が暗殺された(永正の乱)。
その後も細川氏内部では抗争が続いたため、畿内進出の好機と見た義興は、前将軍・足利義稙の上洛を口実として九州・中国の諸大名に動員令を発し、11月には山口から進発し、12月に備後にまで進出した。
これに対して細川家では、政元の養子であった細川高国が義興と通じて、同じく政元の養子である細川澄元と対立・抗争し、永正5年(1508年)3月に細川澄元は高国・義興らに圧迫され、足利義澄と共に近江に逃走した。
6月に上洛を果たした義興は、7月には足利義稙を将軍職に復帰させ、自らも左京大夫・管領代として細川高国と共に幕政を執行する立場になった。
また軍功を賞され山城守護も与えられた。
細川澄元・三好之長らは京都奪還を目指してたびたび反攻してくる。
永正7年(1510年)1月には細川高国と共に近江に侵攻するが、逆に敗北してしまった。
これにより足利義澄方は一大決戦を決意し、永正8年(1511年)7月には摂津に侵攻して決戦を挑んでくる。
これに対して義興は細川高国と共に迎撃するも、摂津でも和泉でも敗北(深井城の合戦)して丹波に逃走した。
しかし8月14日に足利義澄が急死するなどの好条件にも助けられて、8月23日に船岡山城の決戦で細川澄元軍を破り、京都を奪還したのである(船岡山合戦)。
この時の義興の活躍は相当のものだったようであり、永正9年(1512年)3月にはその武功により、従三位に昇位されて公卿に列せられた。
また娘を足利義稙に嫁がせ将軍家の親族ともなった。
永正13年(1516年)には大内氏に日明貿易(遣明船派遣)の管掌権限を恒久的な特権として与えるとする御内書と奉行人奉書が与えられた。
でもこれは細川高国の反対を押し切ったものであり、不仲の原因となる。

予想通り、次第に足利義稙や細川高国と不仲になり、さらに領国の石見や安芸に対して出雲の尼子経久が侵攻を開始してきたため、永正15年(1518年)8月2日に管領代を辞して堺を出発、同年10月5日 山口に帰国した。

今日はここまで!
次回が完結編。
大内義興は息子の義隆と違って勇将って感じます。

posted by ハンドルネーム:六角 at 17:28| Comment(0) | 山口県の歴史人物

2013年02月06日

大内義興(Part1)

湯本大寧寺で亡くなった大内義隆とその家来衆ばかりを取り上げてましたが、今日は義隆の父親の大内義興について書いてみようと思います。

・家督相続
文明9年(1477年)、大内氏の第29代当主・大内政弘の子として生まれる。

明応3年(1494年)、父(政弘)が病気により隠居したため、家督を譲られて大内氏の第30代当主となった。
明応4年(1495年)に父が死去すると、長門守護代の内藤弘矩が弟の大内隆弘を擁立しようとしたと陶武護(たけもり)(陶興房の兄)に讒言され、それを信じて弘矩と子の弘和を誅殺してしまった。
その後、内藤父子の冤罪を知り、讒言した陶武護を誅殺し、弘矩の娘を正室に迎えて内藤氏を再興させている。
※自分が間違ったことはちゃんとそれ相応に手配して償ってるんですね。
若き日の頃は誰にでもある。

・九州へ勢力拡大
北九州で大友氏や少弐氏らと合戦を繰り広げながら、父の代の領土であった周防、長門、豊前、筑前に加え、安芸、石見の守護職を兼ねるほかに肥前の一部にも勢力を拡大。
明応5年(1496年)には大友氏の内紛に介入して大友政親を処刑し、自らが擁立する大友親実(大聖院宗心)を大友家の後継者にしようとしたが、政親の弟大友親治の反抗によって失敗している。

明応6年(1497年)1月には、九州探題の渋川尹繁(ただしげ)を救援するという名目で肥前に出兵。
少弐政資・高経父子を攻め、4月に両名を自害に追い込んで北九州に勢力を拡大。

しかし政資の3男資元が文亀元年(1501年)に挙兵し、永正3年(1506年)には大友親治と連合して大内領に侵攻する動きをした。
明応8年(1500年)には前将軍で明応の政変で京都を追われた足利義稙を山口に保護していた為、義興は永正4年(1507年)に足利義稙の仲介により少弐資元と和睦し、北九州の勢力を保っている。

今日はここまで!
大内義興.jpg

posted by ハンドルネーム:六角 at 17:05| Comment(0) | 山口県の歴史人物